「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」@Shibuya 0-east

「ヘドウィグ〜」は三上博史主演の日本初演版を見てハマった人間です。山本耕史版も見てますが、こちらはヘドウィグよりもトミーのほうがハマってたなあという印象でした。映画版のジョン・キャメロン・ミッチェルに近いのはむしろ山本耕史バージョンのほうだったんだろうなあという気はしていますが、オリジナリティ溢れる三上版が最もお気に入りのヘドでした。そんな前置きをしつつ今回の森山未來版について書こうと思いますが。

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まず最初に、森山ヘドウィグは良かったです。MCのオネエ口調もハマってたし歌も期待以上に良かった。過去のヘドウィグの印象を無理矢理ひとことで書くと「三上博史=怒りのヘドウィグ」「山本耕史=哀しみのヘドウィグ」で、今回は「森山未來=諦観のヘドウィグ」な印象でした。割と冷静に自分の状況を見ていて、人生を受け止めて生きてる感じ。時々「An Exquisite Corpse」の曲の時のように激昂する時もあるけど、基本的には周囲(イツァークやバンドメンバー)との関係も良好だし、ライブもつつがなく進行させる。三上ヘドのような危うさやメンヘラ的な面が無いんですね。まあこれは後にも書きますが「トミーに対してストーカー的なツアーを行ってる」という印象が薄まってるせいもあるのかと。
演出については設定改変のインパクトが強い割に細部がボヤけたことで「物語性」が従来より薄まって、ライブパフォーマンス面が前面に来ちゃった感じですが、コレに関しても後に詳しく述べます。

ざっくりした感想は以上です。ここから先は重大なネタバレと重箱の隅をつつく文章になりますので、長文にお付き合いいただける方だけ先へ進んで下さい。

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今回のヘドウィグは舞台の設定に大きな改訂があります。「東ドイツに生まれ性転換をして亡命した」という設定ではなく、「近未来の日本」という設定に。もっと具体的に言うとかなりネタバレで、これがツイッターを見る限りかなり賛否別れる設定なので、ちょっと改行いれてから書きます。










【設定変更部分について】
舞台は東日本大震災の数年後の日本。福島の原発は壁で囲われて、行き場のない人々がそこへ住み着くようになり、スラム街を形成。その「壁の中」で原発作業員の父と売春婦の母の間に生まれたのが、戸籍のないヘドウィグ。ラジオから流れるロックを通して「壁の外」の世界に憧れを抱く。幼少期に父に性的ないたずらをされ続け、それを母親に見つかって咎められ父は出ていく。ある日スラム街の協会へ行くと米軍から派遣された牧師・ルーサーと出会い、彼の性処理をするうちに気に入られた彼は一緒に外の世界へ出ようと誘われる(ここでHARIBOのグミベアは「飴ちゃん」に変更されています)。母親に町の外へ出たいと告げると「壁の外に出るには戸籍がいる」と母親は自分のパスポートをくれたが、性別は女。闇医者へ連れて行かれ麻酔なしで局部を切り取られ1インチだけ肉が残ってしまう。彼は性転換をして偽造パスポートで壁の外へ出たものの、やがてルーサーには捨てられる。一年後、原発スラムは米軍によって爆撃されて壁は崩壊する。27歳になったヘドウィグは「被爆二世の自分はもう先が長くない」と思い原発スラムへ戻り、あの教会でキリストを見ながら自慰にふけるトミーと出会う…。(またイツァークも被爆二世で女性器も男性器も持たないという設定。心がキレイすぎてちょっと頭がおかしくみえる、ナウシカに憧れる白痴的な少女といった演出)

……といった内容です。
うっかり初日にツイート検索して大まかな設定を知ってしまったので、心の準備をして観ることができましたが、そうでなかったら少し「えっなんでその設定!?」とちょっと拒否反応がでていたかもしれません。そして「被爆二世は短命である」「イツァークは被爆二世のせいで性器が無い奇形」といった設定にちょっと拒否反応が出ます。うーん、これ広島長崎福島の人が見たら絶対に嫌な気分になりますよ。

それに、スラム街の設定の細部が気になってしまいますよね。「勝手に壁の中に入り込んだ人たちがスラム街を形成」した割には「外に出るのは難しい」という状況に陥ってるとか。日本にもスラムに近い街は横浜のあそことか大阪のあそことかに実際ありますが、基本出入りは自由なわけなので、このへんもちょっとひっかかります。外に出るなら戸籍がいるからといって母親のパスポートもらっても、年齢が離れすぎた戸籍やパスポートってそもそも実用性があるのかな、とか。まともな職や住居や法的な配偶者を得ようとしない限り、意外に戸籍なくても生活はできるんじゃないか、とか。(オリジナルでは「出国」という目的のために使うわけだからパスポートの必要性があります)

さらに「スラム街が米軍によって爆撃される(壁が崩壊する)」のも理由がよく解りません。オリジナルでベルリンの壁が崩壊する以上、壁を壊す展開にしなければいけないのはわかるのですが、米軍による爆撃の目的も理由も説明がないので、あまりにも「雑」な展開の印象を受けます(爆撃を報じる新聞の映像を見た後のヘドウィグの対応も恐ろしく雑だったので「もしかして台詞飛ばした?」と思ったほど)。ここのエピソード、オリジナルでは「性転換までして亡命したのに、1年やそこらでベルリンの壁が崩壊して、あの手術の意味がなくなってしまった」というものすごい無常感に襲われる場面なわけですが。それが今回「スラム街が爆撃されて焼け野原になるくらいだったんだから、その前に逃げ出しててラッキーだったね?」みたいな気分になるストーリーに改変されてしまうわけです。

この後、トミーと出会ってからのエピソードについては大きな改変はないので、後半は比較的悶々とせずに見ていられるのですが。前半のこの設定についてはそりゃあ批判も出るだろうなあとおもいます。百歩譲って「原発後の日本」の設定にしたところまではいいけれど、もうちょっと細部をきちんと説得力を持って描いてほしかったな、と。

【演出について】
やっぱり映画や過去の舞台版を見ていないと説明不足かなと思う部分があちこちに散見します。ヘドウィグによるロックへのあこがれも(一応ラジオで聴いて興奮したという描写はあるものの)、具体的なアーティスト名があんまり上がらなかったせいか、「ロック歌手になりたい」という強い動機にまでは至ってない気が。設定を日本に変えたせいでロック歌手の名前を羅列できなくなったのでしょうか。それにヘドウィグとトミーの過去のエピソードについては説明があるので良いのですが、その前後の状況がいまいちわかりづらい。ヘドウィグがトミーの全国ツアーをおっかけて、トミーのコンサート会場の近くの小さいライブハウスで歌ってる、というそもそもの状況(あるいは位置関係)が伝わってるのかどうか。これまでの舞台では「ドアの向こうからのトミーのライブMC」にむかって悪態をついてるのでわかるのですが、今回は背景映像に「ライブ中のトミー」の顔を出してしまっているので、「どういう状況でこの映像が出てくるのか」が抽象的になってます。コンサート会場に向かって悪態をついてるのか、テレビの映像なのか、それとも単なるヘドウィグの記憶なのか、そのへんがかなり曖昧。今回はこういった細部の描写、細部の演出がちょっと全体的に「雑」な印象を受けました。

また、ただでさえ解釈のわかれる終盤(トミーの登場からMidnihtRadioへの流れ)についても、演出家の解釈がちょっと伝わってこない感じでした。ラストのMidnight Radioの場面、三上版の青井演出では「トミーへの意地と執着から解放されたヘドウィグが、それまで支配していたイツァークを解放/衣装とメイクを落として自分を解放するヘドウィグと、逆に衣装とメイクによって自分らしさに目覚めるイツァーク」といった「物語」が見えたのですが(←私個人の解釈ですがそういった流れの演出があったように受け止めました)、今回は「白いワンピースに着替えたイツァークと笑顔のヘドウィグが手を取り合ってステージ奥の逆光照明に向かう」といった展開になっていて解釈に困りました。いや、これは宝塚歌劇団においては「ラストで主人公たちが死亡して愛を成就する=昇天」時によく使われる様式的な演出なのです。宝塚様式が染み付いた私の目には「ヘドウィグとイツァークがなぜか昇天」するようにしか見えなくなって、演出意図が伝わって来なかったのでしょう。「ヅカかよ!」「昇天かよ!」という脳内ツッコミで思わず噴き出しかけてしまってたので。

なおイツァーク役・後藤まりこ嬢のアヒル口と白いワンピースには「誰向けだ! オヤジ趣味か!」とつい思わないでも無かったですが。まあ基本的に今回のイツァークは「心がキレイすぎてちょっとおかしくなっちゃった被爆二世の子供」という設定で、白痴美的なマスコットとして存在しヘドとの関係性が薄い感じでした。印象としてはヘドウィグの夫というよりペットです。可愛いけど、物語にはあまり絡んでない感じ。本来はもっと濃密かつ切実な関係性があったかと思うのですが。歌う場面が多い割にはキャラクターが印象に残りにくい演出だった、とおもいます。

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【訳詞について】
今回はスガシカオによる訳詞がいちおう見所になっていましたが、正直なところ歌詞が聞き取りづらかったので、新感線のように歌詞カードを配布してくれるサービスが欲しいところでした。過去の公演では背景映像に歌詞を出したりもしていたので伝わりやすかったのですが、今回はそれもなかったので、初見の人にとっては「ヘドウィグの物語」が伝わりづらく「ヘドウィグのライブパフォーマンス」といった面しか伝わらなかったんじゃないかな、とちょっと思いました。前述したラストの「Midnight Radio」でも、森山くんがステージからダイブして客席を走り回ったりするので、「ヘドウィグの物語にたいする感動」よりも「ライブ的な演出への興奮」のほうが上回ってしまうのです。

それと部分的に聞き取れた歌詞については「ああ確かにスガシカオっぽい手癖のある歌詞だ!」という印象でした。私はデビュー当時からアルバム買ってライブも多少は行ったりする程度にはスガシカオ好きなのですが、音に対して字余り気味に歌詞を乗せるあたりにスガ節を感じました。あと単語もたぶん抽象的なモノよりは生々しさを感じるものを選んでるのかな、と。ただミュージカル好きで英語サントラや三上サントラを聞き慣れてる耳にとっては、コレが「字余りでやや歌詞がうまく曲に乗ってない印象」「生々しい単語で洗練されてない感じ」を受けなくもないのですね。例えば、Wig in a boxでみんなが歌うところの歌詞。英語詞は「I put on some make-up / Turn on the eight track/I'm pulling the wig down from the shelf」が、三上版だと「急いでメイクアップ 鳴らそう8(エイト)トラック さあ仕上げに ウィッグ乗せて」だったのが、今回は「急いでメイクアップ 気持ちをクリーンアップ いつものウィッグ 棚から出して」になっていて、最後の「たーなかーら 出してっ」が微妙に歌いづらい、とか。ただトミーの歌う「Wicked Little Town」については三上版よりもよりストレートで誠実さを感じる言葉を選んでいる気がしました(具体的な歌詞を覚えてないので印象だけなのですが)。まあ何にせよちゃんと歌詞が確認できてないのでざっとした印象です。歌詞はなんらかの手段で全文を公開して欲しいなと。せめて有料のパンフレットには全曲全詞を乗せて欲しかった…(Angry Inchだけはかろうじて掲載されてますが)。

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あまりにつれづれダラダラ書いてきたので、もうここまで読んだ人ほとんど居ないんじゃないかと思いますが、あくまで人に読ませる目的のレビューじゃなくて自分の覚書なのでご容赦下さい。ここまでお付き合い頂いた方は本当にありがとうございました。ぺこり。