チョコレートドーナツ


1970年代のアメリカ。ショーダンサーのルディと、ゲイであることを隠してきた弁護士のポールが、ヤク中の母親に育児放棄されたダウン症の少年マルコをひきとって家族のように暮らし始めるが、同性愛への差別と偏見によりマルコを奪われてしまう……という物語。主演がアラン・カミングで何曲か歌ってることと、「ものすごい泣ける」という評判を聞いて観に行きました。もう公開からずいぶんたってるのにレディースデーということもあってか客席は6〜7割の埋まり具合。すごいですね。

映画は良かったです。何ヶ所か涙腺に来たし、ミュージカル映画でもないのにアラン・カミングの歌をたっぷり聴けたのも嬉しかった。泣ける映画といってもあざとく泣かすような演出はしていないんですよね。テレビドラマならわかりやすく役者の絶叫演技に久石譲的な劇伴を使うような場面でも、映像はむしろ淡々としていて、ルディの歌がそこに流れているという抑制した演出。こういう演出をしてくれるというのは観客を信頼してる感じがしてとても良かったです。

印象的なシーン。ルディとポールに用意された部屋を見てマルコが「ここ、僕の部屋?」と言って泣き出し、それをルディが優しく抱き寄せて微笑む場面。お世辞にも上手とはいえないマルコの歌を授業参観で見ているルディの母親のような表情。裁判中、声こそ抑えているものの目にうっすら涙を浮かべて抗弁するポール。弁護士とルディのやりとり「人生は不平等なんだな…」「法律学校で最初にそう習っただろう。それでも、戦うんだ」。そして何より、マルコに「魔法少年マルコのハッピーエンドのおはなし」をしてあげるルディと、それをとても嬉しそうに聞くマルコの表情(←ここ、思い出すだけで涙腺に来る)。主演3人の演技がとても良かったです。エピソードだけなら絶望的な救いのないラストにもかかわらず、それでもルディの歌に力強い愛と希望を感じられるのも良かった。

ただ、すごく良かった、良かったけれど、ところどころ引っかかってしまったのは、私がいままさに子育ての真っ最中だからなんでしょうかね。

この映画ではルディとポールの苦労は「同性愛者という差別と偏見を受けている」という点だけが描かれていて、「ダウン症の子どもと暮らすこと」について苦労した点についてはほとんど触れられていません。もちろん、差別がメインテーマだからそこに絞ってほかは削り落としたのは分かります。でも、ルディとポールがあそこまでマルコと暮らすことを望むのであれば、その絆はいつ強まったのか、どこで「親子」の実感を得たのか、そこの描写が欲しかったなあ、と。育った環境の違う三人がいきなり同居を始めたらそれが軌道に乗るまでには衝突や葛藤があるに違いない、そのうちの1人が子ども、そしてダウン症であればなおさらです。3人が同居してからの場面はハロウィンやクリスマスの楽しい描写しか出てこないので(それが時間経過を表す演出と分かっていても)、そんな「ハレ」の日ばかりじゃないだろう、親としての忍耐力を試される「ケ」の日の積み重ねがあったはずだろう、と思ってしまうのです。

障害や病気をもたない普通の子を育てていても、育児はイライラと忍耐の毎日です。もちろん自分の子は可愛い、けれど、その可愛さは極端に言えば100の忍耐と苦労を重ねたからこそ感じられるただ1つだけのご褒美です。「ケ」の日常を繰り返すからこそ楽しめる「ハレ」の日のようなもの。お腹を痛めて産んだから愛情が芽生える母性本能なんてのは幻想で、日々の手間と苦労と忍耐を重ねるからこそ感じることのできる成長への小さな達成感こそが愛情に変わるのだと思うのです。そこの描写がないから、「施設にいれてはダメ、三人で暮らさないと」という点についていささか感情移入しかねた部分はあります。あの穏やかなマルコならどこへ行っても順応できたんじゃないの、とすら思ってしまう。

また、マルコの実母は薬物中毒で逮捕されたり、男とセックスする間は息子を部屋の外に追い出すようなクズとして描かれています。もちろん育児放棄&ヤク中という「あの時点でのあの母親」には同情すべき余地などこれっぽっちもないのですが、「人とは違う子」をひとりで育てていくことになった時点での彼女の絶望にちょっと思いを馳せてしまうのです。同時に、最近渋谷駅で撮影された「子どもを蹴り飛ばす母親」の動画が話題になったことを思い出しました。子どもを蹴るなんて絶対に許されることではないけれど、でもそこに至る心情については育児中の母親なら容易に想像できる話です。実際にやったことはないけど「うっ、殴りたい」と思う瞬間は育児中なら何度だってあります。「今のこの瞬間」だけを切り取ればマルコの母親も渋谷駅の母親もクズです、でも、そこに至るまでには彼女たちにはそれぞれの事情があったはずで、そこに思いを馳せずにはいられません。

そりゃああの時代の同性愛者は今と比べても数倍生きづらかったかもしれない、親に見放された子どもだってもちろん生きづらい、だけど、ダウン症の子どもを持つシングルマザーの生きづらさと絶望だって、負けず劣らずだったんじゃないかな、と。

裁判でルディたちが「マルコの前でセックスしたことはないのか」と言われたことについても、この映画では同性愛者への偏見や差別を表現するためのエピソードとして登場しますが、マルコが12歳でそろそろ思春期だということを考えると、あながち「ヒドイ話」だけとも言えないんじゃないかと、うっすら思ってしまうんですよね。セックスや性処理について避けて通れない時期が近づいてる中で、このへん結構センシティブな問題なんじゃないかと思うわけです。ルディたちが幼児性愛を疑われる場面とかもウッとなりましたけど、とはいえ年頃を迎えたマルコに処理の仕方を教えたりしたらやっぱり裁判では完全にアウトになってしまうでしょうし。彼らは普通の子どもみたいに友だちから知識を仕入れるわけにはいかないのでしょうが、親がソレについて子に教えるのは性的な行為にあたるのか、実の親ならOKなのか、養父ならNGなのか、と思うと、うーんこの問題は誰がどう対処するのが正解なんだろう、とぐるぐるぐるぐる。もうこのへん映画の本筋とは関係なくなってきてますけど。

そんなこんなで「親子の絆とは」「ダウン症の子を持つこととは」ということに思いを馳せて色々考えさせられてしまったので、素直に「感動した」「泣いた」だけではすまなくなってしまい、そのあとも丸一日ずっとこのことについて考えこんでしまったのでした。この映画は「泣ける」という感想だけが売り文句としてひとり歩きしてる印象もあって、ちょっとそこについてもモヤモヤとしちゃったりしましたね。


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