「太陽2068」@シアターコクーン


出典:VOGUE Wedding ダイアリー

イキウメの「太陽」(2011年)は未見です。今回のはいかにも商業演劇という顔ぶれでの再演となり、チケット代を見た時は正直ちょっと迷ったのですが、「前川さんの作品は見ておきたい」「蜷川さんならきっと綾野剛成宮寛貴のふたりをたっぷり観せてくれるに違いない」と思いチケットを確保しました。差別や社会の閉塞感をテーマにしたSF群像劇といった趣で、設定もストーリーも実に面白かったです。設定説明やストーリー紹介を書きはじめたらやたら長くなってしまったので、これは感想の後に置いておきますね。以下、ネタバレもありますので未見の方はご注意下さい。
いちおうジャンルとしては近未来SFということになるんでしょうが、描かれるテーマは「差別と優越感」「極端な少子化のその先の未来」だったりして、色々と考えさせられる点の多い作品でした。そして自分とは違う人種の血を「穢れ」として恐れたり、人種の違いから決定的に分かり合えなかったり差別が起こったり……という様々な「禁忌」が溢れる状況の中で、「すべての元凶」となった人物が帰ってくるという展開。蜷川さんが演出してるということもあるのでしょうが、SFというよりはどこか神話的な世界観を感じたりしました。

病気も老いもなく理性的な夜型のノクスと、感情的で犯罪やトラブルの起こりやすい昼型のキュリオ(=骨董品、という意味の差別用語であると劇中で語られる)。ノクスはキュリオに対して寛大な姿勢をみせるものの、そこには隣人愛というよりは無自覚な傲慢さと優越感がにじみ出ています。ノクスの森繁とキュリオの鉄彦のやりとりの中で、「学校で学ぶことなんてたいしたことないというが、それは学校に行ったから言えることだ。キュリオを守りたい、ノクスなんかたいしたことないというのは、お前がノクスだから言えることだ」といった内容のセリフもありますが、このへん、現代社会でも存在する学歴や貧困の壁ですね。持っている者は無自覚だけど、持たざる者はそう穏やかではいられない、という。

またキュリオは抗体なしでノクスの血が体内に入ると「感染」して死んでしまう、という設定はHIVB型肝炎などの感染経路を想起させます。正確な知識を持たないキュリオたちは近づくだけで空気感染するんじゃないかと恐れるあたりはHIV患者への誤解のようでもあり、また原発事故以降の福島への誤解のようでもあり。初演の時は東日本大震災の年だったから、なおさらそういう印象が強かっただろうなあと想像しました。物語の冒頭ではノクスのほうが万能であるように描かれているものの、実際には出生率が低く子どもについてはキュリオに依存しているという閉塞的な状況が最後に明らかになり、現代の少子化問題がさらに進んだ先の状況を思ってちょっと暗澹としました。

演出はもう、twitterでも書きましたが「ああ蜷川」「うん蜷川」「もう蜷川」「そう蜷川」「これぞ蜷川」「it's蜷川」「蜷川キター!」といった具合で、良くも悪くも蜷川節炸裂でした。とにかく役者さんの演技はエモーショナルに情感たっぷりだし、演出もケレン味たっぷり。キュリオ側は小汚い前時代風の農民衣装で舞台セットも「唐版 滝の白糸」のものを使いまわしたという古い長屋風のもの。一方でノクス側は透明アクリル板の舞台の下に青いネオンサインが光り、透明アクリルの椅子とテーブルというまったく質感の違うセット。衣装もノクスは黒一色で中二病炸裂な近未来イメージの衣装。見た目にはとてもわかりやすい対比になっていて、複雑なストーリーも混乱することなく追うことができました。後半のいくつかの場面は蜷川節炸裂のダイナミックな演出がバシッバシッと決まって客席の空気も湧いたように感じました。しかしイキウメの時は2時間10分だったはずの上演時間が休憩込みとはいえ2時間50分になってるの一体なんでや! と思ってましたが、見たら納得しました。とにかく演技は「たっぷり」だし、間の取り方も長いし、暗転での転換もある。イキウメの時はおそらくもっとドライに淡々と進んで、転換待ちの暗転も無かったんじゃないかなと思うんですが。

しかし、なんといってもキュリオとノクスの壁を越えて友情を通わせる綾野&成宮のキャッキャウフフぶりときたらね……! たぶん本当に仲いいんだろうな、と感じさせるようなカーテンコールでの表情も含め、「そうよ、これが見たかったのよ」と思わせてくれました。クールでシュッとした成宮くんに懐く粗野な野良犬のような綾野くんのカップリング、私が腐女子で絵心があればさぞ薄い本がたくさん描けたことでしょう。この「いま旬の俳優を楽しむ」という観点では十分満足したのですが、ただ、この二人を「W主役」として軸にしすぎるあまり最後に希望だけが印象として残り、ノクスの閉塞的な未来への絶望を背負っていた金田が完全に脇役扱いに見えてしまうのがちょっと、どうなんだろうなあと思ったりするんですよね。2011年上演台本を見るとここまで森繁と鉄彦だけにフォーカスした脚本じゃなくて、もっとフラットな群像劇に見えます。特に金田は屋外で朝日を待つという「自殺したかもしれない」状況での幕切れとなっているので、ちょっとラストの印象が違うんだろうな、と。そもそも金田役が安井順平さんだったことからも、初演ではもっと重要な印象を残す役だったんだろうなと想像できますね。また今回は森繁の手首が落とされるところから克哉の死までの場面をクライマックスとして劇的に演出されすぎていて、その後のシーンがすべてエピローグの気分になってしまっただけに、ちょっと終盤が冗長に思えたりもしました。商業演劇的に仕方ないんでしょうが、もう少しラストは鋭い切れ味が欲しかったところ。

今回は久々にチケットの先行抽選がまったく当たらなくて、「ジャニーズ出てないのになんで??」と思ったのですが、キャストをよく見たら前田敦子! お前か!(失礼)……そりゃAKBの元センターが出てりゃあチケット取れませんよねえ。客席もめずらしく男性率が高い感じでした。綾野&成宮目当ての方も多いでしょうから、おそらく「普段は舞台をみない客層」のお客さんの割合がかなり高い舞台だったと思います。まあそういう意味では蜷川さんのケレン味たっぷりのわかりやすい演出はコレはコレで正解だったんだろうなー、と。この作品を見たというといろんな人に「前田敦子、どうだった?」と聞かれるんですが、うん、悪くなかったと思いますよ。そりゃあこれだけ上手い人たちの中でやってればテクニカルな面では見劣りもしますし、声もガナり気味であまりきれいではなかったけれど。でもセリフは棒読みではなかったですし、ちゃんと他の役者さんのセリフを受けて対応してる感じがあったので、舞台度胸や舞台勘の良さのようなものは感じました。華やオーラというのとはちょっと違うのですが、視線を引きつける吸引力があるというか。ノクスの血に感染した後の野獣のような雄叫びはすごく良かったです。これが初舞台と考えると合格点は楽に超えてると思いますし、経験値さえ積めばいい女優さんになるでしょう。ただまあラスト、キュリオからノクスに変わった後の演技についてはもうちょっと工夫が欲しいかなというのが正直なところでした。「結はノクスになって多くのものを得たように感じている」「だけどそれによって多くのものを失ったように観客には見えなければいけない」という演技をしなければいけない場面なのに、前半しかできてなかったんですよね。父親の六平さんの泣き笑い演技とそれを気遣う中嶋さんの演技で、なんとか「ああここはそういう意図のシーンか」と読み取れましたけど。

あと若手で異彩を放ってたのがネクストシアターの内田健司くん。見た目はアンガールズ山根風で、ちょっと知恵遅れ気味のキャラなのか、人前でもずっと股間のイチモツをいじり続け、柱に股間をこすりつけたりしてるという怪演を見せていました。まあ蜷川さんだしいつもの「猥雑さを出すための演出」だろうなーと思って見ていたのですが、パンフレット読んだら「頼んでもいないのに裸になって怪演技をしてくれています」と書いてあったのでちょっと噴きました。み、自ら……!?

で、ラストは案の定というかなんというか、コクーンではおなじみの「搬入口バーン!」です。舞台奥の搬入口を開けて主演ふたりが渋谷の街へ飛び出していく、という既視感ありまくりのラスト。まあでもなんやかやいってぴたっとハマれば盛り上がるんですよね、この演出。全体的にはいろいろイビツな仕上がりになっていたような気はするのですが、それでも終わりよければ全て良しというか、観劇後は「はー面白かった! 満足!」というすっきりした気分で劇場を出られました。

【ストーリー】
二十一世紀初頭、世界的なバイオテロより拡散したウイルスで人口は激減し、政治経済は混乱、社会基盤が破壊された。数年後、感染者の中で奇跡的に回復した人々が注目される。彼らは人間をはるかに上回る身体に変異していた。頭脳明晰で、若く健康な肉体を長く維持できる反面、紫外線に弱く太陽光の下では活動できない欠点があったが、変異は進化の過渡期であると主張し、自らを「ノクス」(ホモ・ノクセンシス=夜に生きる人)と名乗るようになる。ノクスになる方法も解明され、徐々に数を増やす彼らは弾圧されるが、変異の適性は30歳前後で失われる為、若者の夜への移行は歯止めが効かなくなった。次第に政治経済の中心はノクスに移り、遂には人口も逆転してしまう。
ノクスの登場から約半世紀、普通の人間はノクス社会に依存しながら共存している。かつて日本と呼ばれた列島には、ノクス自治区が点在し、緩やかな連合体を築いていた。都市に住むノクスに対し、人間は四国を割り当てられ多くが移住していたが、未だ故郷を離れず小さな集落で生活するものもいた--。

昼と夜に、別れてしまった未来。強く若い肉体を手に入れた夜の住人と、彼らの登場によって「古く」なってしまった普通の人達の対立が、"ある事件"をきっかけに動き始めていく・・・。(ここまで、公式サイトより引用)

と、公式サイトで紹介されているこのストーリーはあくまで「設定」であって、舞台はこの文章の最後に出てくる「ある事件」から始まります。

キュリオの奥寺克哉(横田栄司)がノクスの男を監禁して、日光を浴びせて焼き殺してしまう。姉の奥寺純子(中嶋朋子)と生田草一(六平直政)は死体を隠すが、事件は発覚。克哉は村を捨てて逃亡し、この事件がきっかけで村は経済封鎖の憂き目に合う。村八分的な制裁により村は廃れ、残った住人はほとんどが老人で20人程度。若者は純子の息子で18歳の鉄彦(綾野剛)、草一の娘で20歳の結(前田敦子)、そして27歳の佐々木拓海の3人のみ。事件から10年が経過したのをきっかけに経済封鎖は解かれ、30歳以下の若者たちには「年に一回の抽選で、ひとりだけキュリオからノクスになるための抗体をもらうことができる」というチャンスが与えられた。

キュリオの鉄彦は村境の関所で見張り番をしているノクスの森繁(成宮寛貴)に興味を持ち、ふたりは次第に友情を深めていく。ノクスで往診医を営む金田(大石継太)はもともとは長野8区のキュリオで、10年ぶりに会った生田草一の老けた姿に驚く。ノクスの役所職員・曽我征治(山崎一)は妻の玲子(伊藤蘭)との間になかなか子供ができず、妊娠はしたが流産してしまった。玲子もまたもとは長野8区のキュリオで、かつては草一の妻にして結の母親であった。金田から結の話を聴いた玲子は結に興味を持ち、養子にすることを考えながら金田と村へ向かい、結と話をする。

経済封鎖を解かれた長野8区に、かつて村から逃げ出して四国へ行った人々が戻ってきたいといってやってきた。「最初は良かったが次第に治安が悪くなり住みにくくなった」といって出戻りを希望するが、土地の所有権や既得権益の問題もあり村人たちはいい顔をしない。キュリオだけで自立する四国への移住を考えていた結は、そこがユートピアで無かったことを知り絶望する。

そんな状況の村に克哉が戻ってくる。甥の鉄彦がノクスの森繁とじゃれあってるのを見てモメていたと勘違いし、克哉は森繁に手錠をかけ屋外に繋いだまま逃げてしまう。鉄彦は純子とともに森繁を助けようとするが動揺してうまくいかない。森繁は鉄彦にシュラフを持ってこさせてその中に避難するが、いよいよ夜が明けてしまい手錠に繋がれた手首が焼け始めた。森繁に頼まれて鉄彦は鉈でその手首を切り落とす。再び現れた克哉を村人たちは取り囲み、鉄彦は克哉に殴りかかる。克哉は袋叩きにあう中で森繁(=ノクス)の血を傷口に触れさせてしまい、悶え苦しんで死ぬ。

結はノクスとなって征治・玲子夫妻の養子になることになった。抗体を打ち玲子の血によってノクスに変化した結は、純子と草一の前に姿を見せる。すっかり変わってしまった結の姿を見て草一は泣き笑いを浮かべる。金田は草一にノクスが出生率を克服していないことを明かし、ノクスの未来を憂いて自殺を試みるが完遂できない。森繁の手はリハビリは必要だが元に戻りつつあり、鉄彦はノクスになる権利の封筒を破り捨て、ふたりであてのない旅に出る。

「太陽2068」
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_taiyo/index.html

【配役】
綾野剛  :奥寺鉄彦(キュリオの少年 18歳)
成宮寛貴 :森繁富士太(ノクスの門番 23歳)
前田敦子 :生田結(キュリオの少女 20歳)
中嶋朋子 :奥寺純子(キュリオ、鉄彦の母 43歳)
大石継太 :金田洋次(ノクスの往診医、草一とは同郷)
横田栄司 :奥寺克哉(キュリオ、純子の弟、傷害事件を起こして失踪 40歳)
内田健司 :佐々木拓海(キュリオ、27歳)
山崎一  :曽我征治(ノクス、区役所職員、75歳)
六平直政 :生田草一(キュリオ、結の父、金田の古い友人 55歳)
伊藤蘭  :曽我玲子(ノクス、現在は征治の妻、草一の元妻、結の母 52歳)
(その他、さいたまゴールド・シアターなどの出演者多数)
【スタッフ】
脚本:前川知大 演出:蜷川幸雄
美術:中越司 照明:大島祐夫 音響:井上正弘 衣裳:宮本宣子 ヘアメイク:川端富生
擬闘:栗原直樹 演出補:井上尊晶 舞台監督:足立充章

舞台写真あり:綾野と成宮、前田らが蜷川の舞台で魅力を発揮 | チケットぴあ[演劇 演劇]