宝塚月組「BADDY −悪党(ヤツ)は月からやって来る−」


出典:宝塚歌劇団公式ホームページ



「舞台は地球首都・TAKARAZUKA-CITY。世界統一され、戦争も犯罪も全ての悪が鎮圧されたピースフルプラネット“地球”に、月から放浪の大悪党バッディが乗り込んでくる。バッディは超クールでエレガントなヘビースモーカー。しかし地球は全大陸禁煙。束縛を嫌うバッディは手下たちを率い、つまらない世の中を面白くするためにあらゆる悪事を働くことにする。彼の最終目標はタカラヅカ・ビッグシアターバンクに眠る惑星予算を盗み出すこと。しかし、万能の女捜査官グッディの追撃が、ついに彼を追いつめる!」 


このショーは上田久美子先生の完全犯罪だ、と思った。
冒頭に引用したのはラインナップ発表の時に明らかになった公演概要の、この頭の悪そうな文章である。いかにもタカラヅカのショーの解説文といったテイストではあるが、それにしたって確信犯的に頭が悪い。今まで激しくも繊細な文芸作品ばかり書いてきた上田先生とは思えない内容である。どうなるのかと期待と若干の不安に胸踊らせながら実際に舞台を見たところ、「なにこれ……なにこれ……なにこれ……!」と驚きと萌えと楽しさで興奮しっぱなしであった。表層的にはキュートで魅力的なキャラクターたちがコミカルに舞台上を駆け回って「良い人と悪い人が追っかけっこする」という実にマンガ的な内容であった。前述の公演概要がまったく嘘をついていない愉快痛快でぶっ飛んだコメディ作品であるにもかかわらず、あれよあれよと展開し、ストーリーは最終的に「お互いに惹かれ合いながらもそれぞれの信念のもとに敵対する男女が、銃を突きつけあいながら、身体を絡ませて燃え盛る業火の中へ飲まれていく」という「完全に上田久美子節でしかない壮絶なラブストーリー」であった。フィナーレでは宝塚の大羽根を背負った男役トップの珠城りょうさんが、なんとサングラスをかけタバコを手に大階段をおりてきて「邪魔だ、どけ!」と組子たちを押しのけた。いまだかつて見たことのないような光景が次々と繰り広げられたショーは、一方で「現代社会への痛烈な皮肉と批判」に満ちたものであり、さらに言うなら「タカラヅカという世界に対する強い敬愛と激しい反発」の表現でもあった。初めて宝塚を観る人なら「にぎやかで楽しいショーだったね」くらいの感想になるところだろうが、宝塚をある程度観ている人間にとっては、大変に革命的な内容だったのだ。


出典:宝塚歌劇団公式ホームページ



プロローグも中詰もロケットも男役群舞もデュエットダンスもフィナーレもある。かつトップ男役、トップ娘役、二番手、三番手それぞれのソロ歌唱もある。生徒たちの魅力を引き出す役をあてがきして、退団する生徒にも花を持たせ、それぞれに巧みに見せ場を与えてすらいる。この「宝塚のショー」の様式美を完全に踏襲しているにも関わらず、それぞれの要素を一本のストーリーで繋ぐという「宝塚愛」がなければできない構成の舞台であった。しかしその一方で、そのテーマは「清く正しく美しいだけの世界ってそんなに美味しいの? そんなものつまらなくない?」とタカラヅカの世界にケンカを売ってるようにすら見える内容でもあった。すごい。あのすっとぼけた企画書でお偉いさんたちをケムに巻いたうえに、「ショーとしての基本構成要素は全て入れてますが、何か問題でも?」と言わんばかりのふてぶてしさ。そう、何一つルール違反は犯していないしすみれコードにひっかかる点もない。ショー構成としてなんら足りない要素はない。その上でタカラヅカという世界に一石どころか巨大な岩を投げこむような物語を書いてみせた。あれは上田久美子先生の完全犯罪であり、革命でもあった。私はそう受け取った。


『現在の社会は良くも悪くも善悪の線引きが厳しくなり、以前はグレーゾーンだった範囲も悪と見なされるようになったと感じています。それが決していけないわけではありませんが、人間は無菌状態に置かれると、「もっと自由でいたい」という願望が芽生えるものです。』インタビューで語るとおり、上田久美子先生はあくまで「現代社会への批判」としてこの作品を書いたと話している。もちろんそういう面も大いにあるにはあるんだけれど、「戦争も犯罪も全ての悪が鎮圧されたピースフルプラネット“地球”」は、宝塚ファンから見れば、「清く正しく美しく」の名の元に汚いことや美しくないことが全て排除され無菌化された「ザ・タカラヅカの世界」の比喩にしか見えない。これは私の憶測でしかないけれど、上田先生の書くこれまでの作品も頭の固いファンや劇団関係者に色々言われてきたんじゃないだろうか、「宝塚作品としては暗すぎる」「こんな役を宝塚の生徒にやらせるなんて」「小難しい」とかなんとか。そんな息苦しい状況に対する激しいアンチテーゼではないのかな、と感じる作品だったのだ。


あるいは、過剰に品行方正な優等生であることを求められるタカラジェンヌたちへの応援歌であったのかもしれない、と思うのは考えすぎだろうか。「少しくらい悪いコでもいいんじゃない、はみ出すくらいの方が人間的で魅力的だよ」と。


出典:ステージナタリー


名場面が色々あるのだけれど、一番激しく心を揺さぶられたのはグッディを演じる愛希れいかさんが率いるロケットのシーンだった。ロケットとはつまり宝塚の象徴でもある一糸乱れぬラインダンス。従来のショーでは爽やかな笑顔を浮かべた下級生たちがニコニコしながら「ヤッ♪」と楽しそうに掛け声をかけて踊るところで、観客も「ああ初舞台の若い子たちが一生懸命やってるなあ、頑張れ〜」と親戚のおばちゃん気分でほのぼの見守るような場面だった。それが今回、「怒りに燃えるヒロインが、初めて感じるその激しい気持ちに気づき、自分が生きているということを実感する」という場面でやってきた。グッディはふわふわのスカートをかなぐり捨て脚をむき出しにして怒りの声をあげ、後ろのグッディーズも笑顔を消して激しく足を蹴り上げながら歌い踊るのだ。こんなロケットは前代未聞だし、おそらくこのラインダンスに「怒り」という感情を込めたのは、100年以上の歴史を誇る宝塚でも初めてのことではないだろうか。あまりのことに私はこの場面を見ながら泣いていた。この場面が「型破り」だったからだけではない。これは「女性たちの、社会に対する怒りの代弁だ」と感じたのだ。私はあの時、このロケットに込められた意味を「女はいつまでも媚びへつらって愛想笑いなんかしなくたっていいんだ」「女はもっと本当の気持ちを、怒りを、表に出していいんだ」と解釈した。長年完璧な笑顔でラインダンスを踊ってきたタカラジェンヌたちが、初めてその笑顔を封じたことが、MeTooの機運が高まる今のご時世に重なる。あれは「男社会に対する女性の怒り」の代弁であり、その肯定であった。さらにいうなら「ただカッコイイ男役を見せればいい、娘役は可憐で清楚な添え物でいい」という宝塚の掟に対する痛烈なアンチテーゼでもあった。だからあの時、私は激しい怒りに燃えるグッディの生き生きとした表情に泣いたのだ。なんなら思い出してこれを書きながらまた泣いている。重症だ。
もしかしたら、この作品は、タカラジェンヌに限らず、世の中の全ての女の子に対するエールだったのかもしれない。『女の子だからいいコにしなきゃね』と思い込まされてきた全ての女の子たちへ、覚醒と蜂起を呼びかけるメッセージにも思えてきた。


大劇場初日後のトップコンビの会見によると、上田久美子先生は稽古場で『私がコケたら、もうショーの女性演出家が出ない』というような話をしていたのだそうだ*1。ファンはなんとなくそこから上田先生のこのショーへの並々ならぬ思い入れとプレッシャーを感じることができる。外部演出家の謝珠栄先生を除けば、座付き演出家で女性のショー作家はまだいない。芝居のほうは(辞めてしまわれた)児玉明子先生、植田景子先生、小柳奈穂子先生と先人がいるし、上田先生の後にも樫畑亜依子先生が控えている。それでも、「私がコケたら」なんてことを感じてしまうほどに、宝塚の演出家という仕事は男の世界なのだろう。そんな内部事情も垣間見えたために、なおさらあの娘役中心の「怒りのロケット」が心に響いたのだ。コケるとかコケないとか考えなくても良いような、もっと無難でおさまりのよいショーを作ることもできたはずだ。それなのに、明らかに賛否がわかれるような、「ついてこられるやつだけついてきな!」と言わんばかりの斬新で大胆な内容のショーを仕立て上げ、タカラヅカという世界に大きな風穴をあけるリスキーな大冒険。それをこんなにも楽しく中毒性の高い作品でやってのけた上田久美子先生に、私たちは心からの快哉を叫んだのである。



(主にウエクミ先生へのラブレターになってしまったので、生徒の魅力やカンパニーについての感想はまた後日書きます)