パシフィック・リム アップライジング

めちゃくちゃ好きだった「パシフィック・リム」の続編です。前作のときは4DXがまだ関東になくて、名古屋まで遠征してわざわざ観るほどこの映画が好きでした。監督がデルトロではなくなってしまいましたが、それでも前売り券握りしめて楽しみにしていて、公開後すぐに観てきました。いいところもあるんだけど私が観たかったパックリはコレじゃないー、というのが第一印象。でっかい怪獣とでっかいロボットが戦うという点についてはほとんど変わらないのに、監督がかわるとこんなにもディテールが変わるんだな、と思いました。Twitterで「デルトロの1作目は円谷プロ、二作目は東映」って書いてた人がいて、すごく端的に特徴を表してると思いました。トランスフォーマー的なアクションが好きな人には合うと思うんですけど、1作目のあの「鈍重!」といった重量感や、どこかで見てきたオタクコンテンツのイイトコドリみたいな胸熱ストーリー展開が好きだったので、今回のはあそこまで熱狂的にはなれなかった感じです。映画として決して出来が悪いわけではないんですけどね。



以下、ネタバレありありで感想書きますので未見の方は要注意。




1作目で裂け目は完全に閉じたので二作目はどういう設定にするのかと思いましたが、なるほどこの手があったか、と思いました。1作目で怪獣の脳とシンクロしたニュートンがその影響で洗脳されてしまう、地球上に残っていた怪獣の細胞がイェーガーの機体をのっとって破壊活動をする、そこからのロボットvsロボットの構図、さらに怪獣vsロボットの構図に持ち込むあたりの脚本は素直に「おおー!」と思いました。前作のストーリーと世界観を踏まえた上での作劇になっていたと思います。英雄の息子でありながら屈折して今は安い悪事を働いてるジェイク、戦地で拾い集めたパーツで小型イェーガーを作り乗りこなしてしまう少女アマーラ、そのふたりが出会ってなんやかやあってパイロットの素質を見出されイェーガー乗りになる、というあたりのストーリーも、ほんのり「どこかで観たぞ!」感があってパックリらしいなと思いました。

前回はメインのアクションシーンが夜の市街戦や海底戦で、全体的に絵が暗くなにをやってるのか映画館によってはよく見えないところもあったりしたんですが(←スクリーンによって見え方が違うんですよね。明るめに調整してある館だと良く見えたんですけれど)、今回は日中のバトルだったのでアクションが見やすくてそこも良かったです。「なんか激しく戦ってるのはわかるけど何が起こってるのかよくわからない!」みたいなのは無かったので。

そのへんは良かったんですが、うーん、乗り切れなかったのはやっぱりイェーガーの描写なんでしょうかね。 重々しくドシーン、ドシーン、と動くあの重量感こそが1作目の大きな滾りポイントだったんだなあと改めて思いました。イェーガーの表面の質感とかにもフェティシズムを感じましたし、タンカーを武器にして殴るシーンにもカッコイイ面白さがありました。「タンカーのようなもの」という言葉(定型句「バールのようなもの」のもじり)が当時ファンのあいだで流行ったのを覚えています。今回は10年の時がたって技術も進歩したということなんでしょうけれど、ロボットがまあヌルヌル動く。チェルノアルファみたいなもっさりしたデザイン(いやそこがたまらなくいいんだけど)のイェーガーはいなかったのがちょっと残念です。セイバー・アテナなんてほとんどタイガー&バニーのヒーロースーツみたいだものね。スクラッパーは可愛くて良かったけど。ほんと一作目は昭和のロボットアニメに影響受けた人が作った感じで、二作目は平成のロボットアニメに影響受けた人が作った感じでした。


(にてる……)

パイロット候補生の若者たちももうちょっとキャラが立っててほしかった。一作目ではほとんど台詞らしい台詞がなかったにもかかわらず「あのロシア夫婦のスピンオフを下さい……!」と思ったくらいだったんですがねえ。今回のヴィクトリアはそのカイダノフスキー夫妻の娘という設定があったとかなんとかいう話も後から聞きましたが、そこちゃんと描写しようよ〜胸熱なやつじゃん〜と思いました。設定自体消えてしまったんでしょうかね。

そういえば「市民の避難は完了した! 攻撃を開始する!」みたいな感じでものすごくスピーディに東京都民が避難完了したの、今までなら気にならなかったんですけど「シン・ゴジラ」を観た後だと「いやいやいやいやいや」って思いますね。なっかなか逃げられなくて撃つか撃たないかいや撃とうぜ撃て……ない! みたいなあのくだりを観た後だとね、「いやーそんな早く避難終わんないから!」って思いました。

マコはまあ出番が少なかったのでそれほどでもなかったんですが、1作目でニュートン&ハーマンのオタク博士コンビが好きだったので、今回も出てはくるんだけど若干解釈違いな面があり、そこも乗り切れなかった原因かもしれません。ハーマンもニュートも「生きてるオタク」感がなくなってしまって、脚本を進めるためのコマになってしまった感があり、そこがとても残念に思いました。ニュート、怪獣の脳といちゃいちゃしちゃうところはまあ「らしいな!」と思うし、行き過ぎたオタク愛ゆえに闇落ちするのもまあわかるので、悪役サイドにまわってしまうのはもちろんそれはそれでアリ!なんですけれど、でもだからって金を持ってもあんなコジャレた部屋には住まねえだろ、たとえKAIJUとシンクロして洗脳されてもそこは変わんねえだろ、と思うんですよね。ニュートはもっとオタク部屋に住んでるはずだと思うし、ニュートとシンクロしたKAIJU側も「素敵な部屋」「理想の部屋」でイメージする物がアレにはならないと思うんですよ!(そここだわるところ?って思うかもしれないんですが、そういうとこなんだよ!そういうとこなんだよ!)(二度言った)なんかとても標準的な悪役というか「この世界を壊してやる! 支配してやる!」みたいな感じのテンションに見えたのがなんか違うなーと。ニュートのクレイジーさって世界征服方向じゃなくて「怪獣のことをもっと知りたい」方向に進むはずだと思うんですよね。まあKAIJUに洗脳されてるからってことで説明はつくんですけれど、乗っ取られたくらいでニュートの大切なところなくさないでほしかった。この作品におけるブレイン・ハンドシェイクって、お互いの記憶や感情を共有するところまでは行くんだろうけれど、あんな完全に洗脳状態になるやつじゃないんじゃないのかなーと。もともと怪獣大好きなニュートだからKAIJUの気持ちに寄り添っちゃうのはわかるんだけど、人格は変わんないでしょう?って。クライマックスの主戦場となる東京の街並みのディテールとかは別にいいんですよ、適当な看板が山ほど出てきても、富士山と東京の位置関係がおかしくても、「うん、まあ、別にいいんじゃない?」って思います。前作でもそこがパックリの面白さだったわけですし。でもね、ほんの数秒しか出てこないニュートの部屋がああなってたのがね、すごく! 残念でした!(自分でも「そこかよ!」とは思うけど)(でもデルトロならニュートの部屋をああしなかったと思って)