宝塚雪組「fff フォルテッシッシモ〜歓喜に歌え!〜」鑑賞メモ(ネタバレ無)

【はじめに】この記事は舞台の感想ではなく、もしかしたら「fff」の鑑賞の手引になるかもしれない個人的なメモのようなものです。「fff」は95分のミュージカルにしてはみちみちに情報が詰まってる上に当時の歴史的背景と関わる部分も多く、一回見ただけでは咀嚼しきれない部分もあるかと思いました。というわけで、劇中に登場するいくつかのモチーフ、単語についての個人的な解釈をいくつかメモしました。見る前にちょっと頭の隅においておくと、物語が飲み込みやすくなるかもしれない「ヒント」のようなものです。

あくまでこれは個人的な解釈なので、自分で観た感想を大事にしたい方は頭に入れないほうがいいかもしれません。ただ、なにせサヨナラ公演でなかなかチケットが取れない、どうやっても一回しか観られない、という方も多いかと思いますので、「どんな情報でもいいから、ちょっと予習をしておきたい」という方に向けて、自分の覚書もかねて書きました。

 

 


主要登場人物の位置関係

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↑1809年の地図を重ねています。エルフルトはエアフルト、テプリッツはテプリツェ、ワイマールはヴァイマルなどと表記されることもあります。

  • フランス革命ロシア遠征など様々な場面が出てきますが、物語の中心となるのはベートーベンが作曲活動を行っていたオーストリアの都・ウィーンです。冒頭でアントワネット様やシトワイエンヌが出てきたりするので、ヅカ脳がうっかりフランスの話だと認識してしまいそうになりますが、特に説明がない場面はウィーン!だと思って観ましょう。
  • ベートーベンは神聖ローマ帝国(=1806年に解体)のボン生まれ。ボンは回想シーンで出てきます。ウィーンとの距離はだいたい830kmで、ざっくり東京ー広島間くらい。日本で言えば地方都市の広島(ボン)から文化の中心・東京(ウィーン)に上京したイメージでしょうか。
  • ゲーテは「ドイツの作家」というイメージですが、劇中の時代のドイツは領邦国家で、神聖ローマ帝国(〜1806)またはライン同盟(1806〜)としてたくさんの小国の集合体です。ゲーテが枢密顧問官を努めていたワイマール公国はドイツのいち地方のちっちゃい国*1ですね。劇中では作家であると同時に政治家として登場しますので、「ドイツの中にある小国の政治家」とおぼえておいてください。
  • ナポレオンはコルシカ島出身のフランスの軍人です。ナポレオン戦争については細かく覚えようとすると大変なので、ここはいったん超ざっくりと「ナポレオンのいるフランスとベートーベンのいるオーストリアは敵対関係にある」という状況だけ覚えておいてください。

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ナポレオンが最期を迎えるのはセントヘレナ島、イギリス領の島です。1814年にナポレオンを地中海のエルバ島に流刑にしたら、島を抜け出して復位しちゃったものだから、二度と帰ってこれないように1815年にこのセントヘレナ島に送られてしまったんですね。

 


登場人物について

智天使ケルブ

一樹千尋さん演じる「智天使ケルブ」は、天国の門番的な存在として登場します。私もあまり詳しくないのでこのへんは聖書に詳しい方に任せたいですが、旧約聖書でのケルブ=ケルビムは、エデンの園の東の門を守る天使の名前だそう。ベートーベンの第九の歌詞に登場します。第九の日本語訳詞はこちらのサイトなどをご参照ください。

 

▼プロローグの作曲家たち

物語の冒頭で「天国の門の前で足止めを食っている三人の作曲家」としてヘンデル(真那春人さん)、テレマン(縣千さん)、モーツァルト(彩みちるさん)が登場して、劇中では「貴族のために作曲をしていた宮廷音楽家」というポジションとして扱われます。この3人はいわゆる「サンコイチ」、劇中では同じ役割を担う3人ひと組となります。

「バッハがすぐに天国に行けたのは教会のための音楽を作っていたから」「貴族のために作曲をしていた3人については、その後継者の行く末をみてから連帯責任でさばいてやる」とケルブ様に言われ、天国に入れずに足止めされているという状況です。3人が天国にはいれるかどうかは3人の後継者であるところのベートーベンの肩にかかっているのですが、神ではなく「人間のため」に音楽を作ろうとするベートーベンを見て3人はあわてふためき、音楽家生命を終わらせるためにベートーベンの聴力を奪おうと、天界の雲をベートーベンの耳につっこむ……というのがプロローグの流れになります。(まだプロローグなのに既に情報量が多い!)

これが物語の外枠となり、この3人はベートーベンの生涯を見守る存在としてしばしば登場することになるのですが、ベートーベンへの干渉は最初の聴力を奪うところだけです。その後は彼の人生には介入しないので、物語の外側からベートーベンを見守る3人のコミカルな芝居をあまり深く考えずに楽しめば大丈夫かと。

またベートーべンは「初めてのフリーランスの作曲家」と言われています。宮廷のお抱え作曲家として王侯貴族のために作曲するのが当たり前だった時代に、自分の作りたい音楽で身を立てた初めての作曲家だったということになります。

というわけで、クラシック史に詳しい方には他にいろんな見方もあるかもしれませんが、劇中ではざっくりと「バッハは神のために、モーツァルトたち3人は王侯貴族のために、ベートーベンは人間のために音楽を作った」と簡略化した構図で認識しておけばよさそうです。

(ミュージカル「モーツァルト!」なんかを見てると、シカネーダーに魔笛を書いたモーツァルトを「貴族のための作曲家」とくくっていいのかな?という気持ちもありますし、モーツァルトこそ「フリーランス作曲家の先駆け」とする見方もあるようです。ただ、この劇中ではマリー・アントワネットの処刑を痛ましく思う描写があるところから、「王侯貴族のための作曲家という記号として扱いますよ」と宣言してるんだと思います)

 

▼皇帝陛下
透真かずきさん演じる「皇帝陛下」はフランツ一世(1768〜1835)、ミュージカル「エリザベート」でもおなじみハプスブルク家オーストリア皇帝(1804〜)です。フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットの甥にあたり、さらにこのフランツ一世の孫があのフランツ・ヨーゼフ(エリザベートの夫)になります。

オーストリア皇帝ではありますが、1806年までは神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝(=フランツ二世)でもありました。ほぼ形骸化していたとはいえ1000年続いた神聖ローマ帝国をナポレオンによって滅ぼされ、さらに度重なるナポレオン軍とオーストリアとの戦い、と、ナポレオンには辛酸を嘗めさせられている状況にあります。

 

▼選帝侯

ベートーベンの回想、少年時代の御前演奏会に登場する「選帝侯」(=叶ゆうりさん)はケルン大司教のこと。宮殿らしき場所に偉い人のお衣装ででてきますので、遠目に見てると冒頭で出てきた皇帝と同じ人?別人?と思って混乱しそうになりますが、この「選帝侯」とは「神聖ローマ帝国の君主への選挙権をもつ諸侯」のこと。つまり上述の「皇帝陛下(透真かずきさん)」への選挙権を持った、いち地方領主ということになります。

史実的にはベートーベンは12〜13歳のときにケルン大司教に「選帝侯ソナタ」を作曲して献上していますが、劇中10歳のベートーベンはかなり反抗的でしたね。

 

▼小さな炎
笙乃茅桜さんが演じている黄色い衣装の女性ダンサーの役名が「小さな炎」、これはベートーベンの生きる希望、意欲、モチベーション、気力などの象徴だと思われます。ベートーベンがイケイケの時は元気に踊り、ベートーベンの心が折れると弱々しくなります。ベートーベンのHP値&MP値、あるいは「やる気メーター」だと思って観ると分かりやすいかと。

 

▼黒炎
華蓮エミリさんと沙羅アンナさんが演じている黒いお衣装のダンサーは、さきほどの小さな炎と対になる存在。「小さな炎」を消そうとする場面があります。絶望、災厄、悲運、不幸、不運などの象徴でしょうか。エリザベートでいえば「黒天使」、ロミジュリで言えば「死」に近い存在の象徴ダンサーですかね(この劇中では「死」とイコールではないような気はしてますが)。劇中劇のウェルテルが自殺するピストルをロッテに手渡したり、ある登場人物の葬儀のシーンにも参列者として紛れていたりします。

 

▼黄色い衣装のひとたち
ベートーベンの音楽。場面によって、オーケストラの楽団員だったり、ベートーベンの内なる音楽(=まだ世に出してない楽曲の構想)であったり、ベートーベンの音楽に熱狂する市民であったりします。共通するのは「ベートーベンの音楽」の象徴であること。前述の「小さな炎」と同じ色のお衣装であることもたぶん意図的ですね。

 

 


劇中のモチーフや単語について

▼「音楽の力」と「武力」
劇中のあちこちでこのふたつのイメージを意図的に重ねる演出がされています。砲音のような音楽、大砲の爆破による噴煙のように湧き上がる音符の映像、金管楽器のような大砲、など。ベートーベンの「音楽の力」と、ナポレオンの「武力・権力」、このふたつの「力」のイメージがたびたび重なるように描かれている理由は、終盤の場面でたぶんわかります。

 

▼大砲
チューバと大砲の台が一体化したような装置は、脚本によると「大きなトランペットを模した大砲」とあります。前述のとおり「音楽」と「武力」のイメージを重ねて具象化したものでしょう。場面によって、大砲として使われたり、ベートーベンの大音量の音楽を表現するものとして使われたりします。

 

▼4回のノック
劇中に出てくるドアのノック音は必ず「コンコンコンコン」と4回。「♪ジャジャジャジャーン」でおなじみの交響曲第5番の通称は「運命」ですが、こんなエピソードがあるそう。
『この通称は、ベートーヴェンの弟子アントン・シンドラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーヴェンが答えた(後述)ことに由来するとされる。しかし、シンドラーベートーヴェンの「会話帳」の内容を改竄していたことが明らかになっており、信憑性に問題がある。 学術的な妥当性は欠くものの、日本では現在でも『運命』と呼ばれることが多い。海外においても同様の通称が用いられることがある』wikipediaより引用)。

信憑性に問題があるとはいうものの、劇中でノック音が必ず4回なのは、このエピソードを踏まえているものと思われます。

 

▼「耕す」
「よく耕された精神」など、劇中でセリフに「耕す」の単語が出てきます。「culuture=文化」の言葉の語源が「耕す(colere)」。初めは「畑を耕す」の意味で使われていたものが、「心を耕す」の意味で使われるようになり、「教養」「文化」の意味になっていった、とのこと(語源由来辞典より)。

ということを踏まえて観ると、時々出てくる「耕す」のセリフがしっくり飲み込めるかと思います。ラストシーンのゲルハルトの台詞にも出てきますよ。

 

啓蒙思想とカント
劇中では「啓蒙思想」の言葉は出てきませんが、演出の上田久美子先生から啓蒙思想について説明があった(※ゲルハルト役の朝美絢さんがナウオンステージにて言及)とのことなので、ストーリーの下敷きになってることは間違い無いですね。「啓蒙」=人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと大辞泉より)」、あるいは「光で照らす」の意味も。ブロイニング夫人が「勉強なさい、高い世界に行きたいのなら」とベートーベンに言い、本を与えたときに「小さな炎」が生まれるのは、まさに彼の人生を「光で照らした」瞬間なのだと思います。ナポレオンもベートーベンに「勉強は好きか」と問う場面がありますね。

さきほどの「耕す」の意味を踏まえつつ、カントの著書の序文だけなんとなく眺めておくと、劇中で一度「カント」の名前が挙がる場面で「なぜ突然カント?」と戸惑わなくなると思います。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10>

 

▼アン・デア・ウィーン劇場

これは単なるトリビアなので別に知らなくても物語の読解には関係ないですが、ベートーベンが交響曲第3番を初演した劇場のアン・デア・ウィーン劇場(劇中では単に劇場として登場するだけで劇場名は出てきませんが、脚本には書いてあります)は、今もウィーンに現存します。現存するどころか日本でもおなじみのミュージカル「エリザベート」や「モーツァルト!」を初演した劇場だそうで。「モーツァルト!」に登場するシカネーダーさんが1801年に建てた劇場なんだそうです。劇中に登場するのが1804年なので、こけら落としから3年くらいのまだぴかぴかの劇場ですね。

 


劇中の年表

(大きなネタバレはありませんが、こちらは観劇後の参照用にどうぞ)

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脚本のト書きに「史実では1808年だがその後の設定に」とあるように、意図的に史実と年代を変えてる部分がいくつかあるようです。よくよくみるとハイリゲンシュタットの遺書やロッシーニ泥棒かささぎ作曲のタイミングも史実と違いますね。ロールヘンの妊娠の時期と出産後の出来事も年表にしてしまうと矛盾は生じますが、そのへんは作劇上の処理として割り切って観るほうが良さそうです。

第11場B以降の終盤の場面については、一応ナポレオンの死亡時期と第九の作曲時期から年表に記入するだけしましたが、劇中ではもうちょっと時間軸がふわっとした感じで描かれてるように思います。終盤はあまり具体的な年代にこだわらずに見ても良さそうに思います。

 はっきり回想とわかる少年期〜青年期のシーンで一度時間を遡るだけで、あとは時系列順に描かれていますので時制的には特に難しい話ではないです。が、過去の幻影や夢の中のロシアなど時空に囚われない場面がいくつか出てくるため、「その場面が意味するもの」を把握した2回目以降の観劇のほうが、より理解が深まるように思いました。

 

 

以上です! また何か思うところあれば追記していきます。

 

 

*1:ワイマール公国、つまりザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国は、「面積1900平方km、人口6000人程度の小国」とwikipediaにあります。面積は香川県(1877平方km)くらい、人口は草津町(推定6089人)くらいのイメージでしょうか。