青山円劇カウンシルファイナル「赤鬼」@青山円形劇場

野田秀樹演出の赤鬼は96年の初演、98年のタイバージョン、04年の日本版、タイ版、ロンドン版もすべて観ました。初演のインパクトは相当なものでラストでとにかく泣いたことを覚えてますし、演出を大きく変えたタイ版の真っ白な透明感あふれる舞台の美しさには再演でも号泣。何度見てもついついラストで号泣していた作品だったし、今回の公演はキャストも魅力的だったので、迷わずチケットを取ったのだけど。うーん。舞台の出来は決して悪くはないと思ったのだけど、泣いたか泣かないかっていうと泣かなかったし、いくつか物足りない部分もあったのは確か。

冒頭と終盤の波に飲まれる4人を表現するあたりの動きはたぶん小野寺さんの振付なんだろうな、「水と油」のパフォーマンスっぽくてちょっと面白かったです。演出は全体的に正攻法だった気がするけれど、野田さんの演出との決定的な違いは「赤鬼」が最初日本語を話していたところだと思いました。小野寺さん演じる「赤鬼」が「水をくれ」と言っているのに「あの女=フク」には通じない、というのがとても演劇的。赤鬼の衣装も特に異形感はなく、フクたちが青の衣装に対して赤鬼は赤、という程度の違いで「見た目には大きな違いはない人」を徹底的に他者として扱うというのが、より「差別」の感覚を浮き上がらせるという点ではこの演出は良かったと思いました。前半までは。

ただこれが「Oh, God!」=「大ごと」のやりとりのあたりから、赤鬼の言語が英語になってしまいます。ここは確かに戯曲の通りではあるのだけど、後半が戯曲通り英語になってしまうんだったらなんで前半を日本語にしてしまったのか、ちょっと演出意図がわからなくなってしまいました。野田さんの演出の時は「最初は英語には聞こえない唸り声」だったのが「後半ははっきりと英語として聞き取れる」ということで、「あの女=フク」が赤鬼の言語を聞き取れるようになったことを表していたのだと思うのですが。これならやっぱり最初から赤鬼の言語は英語の方が良かったんじゃないのかなぁ、と思いました。

そして役者。「あの女=フク」の黒木華さん、期待通りすごく良かったのだけど、個人的にはもうひとさじ弱さと脆さが欲しかったです。なんだかちょっと生命力あり過ぎて、「死んだ赤鬼の肉を食べた」と知っても生き延びそうな感じ。というか、なんならサバイバルのためなら「どうせ死んだらただの肉」と気持ち切り替えて冷静に屍肉食べてしまいそうなイメージ。ただまあこの辺は円形劇場の難しいところで、肝心なシーンでの肝心な表情が見えなかった可能性もあるわけで、別の席位置から観ていると印象が違ったりする可能性もありまして。なので、「※あくまで個人の感想です」とひとこと言い添えておきたいところ。

ミズカネの玉置玲央さん。良かった! セリフの言い回しとかもいかにも野田作品ぽい感じでとても上手かったです。まあこの作品におけるミズカネってすごく美味しい役なので、観るたびに「ミズカネが好きなのかミズカネを演じてる役者が好きなのか」わからなくなるんですけども。チャラい物言いの裏で「あの女」を一途に思う純情がすごく伝わってきて、女心にキュンとくるキャラなんですよね……。ミズカネについてはたぶん前述の「肝心な表情」が見えたパターンで、赤鬼とフクの間の関係について思いつめるあたりの真剣な表情がばっちり間近で見られたのがとても良かったです。だから、「……嘘だよ、お前とやりたいから。生きろ、でないとお前とやれない」のセリフもすごく熱烈なI love youの意味に聞こえたのでした。

とんび役の柄本時生さん。正直なところ肝心なモノローグ部分のセリフのところが棒読みに感じられてしまって、もうひと工夫ほしかったような。もともと野田さんがやってた役だし「頭が弱い」って設定だから難しいのはわかるんだけど。それでも妹やミズカネとの会話のところはすごく良かったので決して下手な役者さんではないと思うんだけど……。冒頭とラストの一番泣けるセリフ、もう少し情感のある言い回しにして欲しかったかなあ。うーん、残念。

あと、野田さんの演出の時は「フクと赤鬼」の間に「実際にやったかやってないのかわかんないけど、もしかしたらやったかもしれないな」っていう絶妙なさじ加減のエロスがあったと思うんだけど、今回はそれは感じなかったなあ。たぶんこのふたり、やってない。っていう印象でした。

http://akaoni2014.com/

作:野田秀樹 演出:中屋敷法仁
出演:黒木華柄本時生、玉置玲央、小野寺修二/竹内英明、傳川光留、寺内淳志
振付:小野寺修二 音楽:阿部海太郎 美術:土岐研一 照明:松本大
音響:加藤温 衣装:高木阿友子 ヘアメイク:大宝みゆき
演出助手:入倉麻実 舞台監督:宮田公一 川除学

<物語>
ある日、村の砂浜に肌の色も言語も違う異人が打ち上げられる。 村人はそれを「赤鬼(小野寺修二)」と呼び、村八分にされている 「あの女(黒木華)」が 呼び寄せたという偽りの噂が広まる。 赤鬼は人を喰うと誤解され、村人に迫害されたあげく 処刑されることが決定する。 あの女は徐々に赤鬼と心を通わせ、 赤鬼が人でなく花を食べること、理想の地を求めて浜にやってきたことを知り、 白痴の兄「とんび(柄本時生)」、嘘つきの「ミズカネ(玉置玲央)」と共に、 赤鬼を救出しようとするが・・・。

<赤鬼とは>
1996年初演。 人種間における差別という普遍的なテーマを、 巧みな言葉遊びと軽快なテンポで痛快に描き出す同作品は、 大きな話題を呼ぶ。 その後2004年に、タイ版、ロンドン版、日本版の3バージョンにて上演。 現地でのワークショップを経て創作されたタイ、ロンドンバージョンでは “赤鬼”役を野田秀樹自身が演じ、再び大きな注目を集める。 同作品にて、第4回朝日舞台芸術賞、 第12回読売演劇大賞演出家賞・作品賞を受賞。

<演出家より>
「他者」無き時代に、新たな「境界線」を − 中屋敷法仁  
現代の日本社会に『赤鬼』という演劇を投じる必要を感じている。  
東日本大震災以降、この国では、他者との絆を強め「ひとつになる」ことが殊更にもてはやされてきた。その題目自体は決して間違ったものではない。しかし、「絆を結べない」「ひとつになれない」という人間の本質的欠陥については、無視されてしまっているように思う。人と繋がることが容易にできると、誤解してはいないだろうか。  
我々は「ひとつになる」のが苦手な生き物だ。壁の無いところに壁を作り、常に他者を排除しながら生きてきた。差 別や排除の全く無い時代を目指す為には、その現実を受け止めなければならない。戯曲『赤鬼』はそんな人間の普遍的な性質を表現している。差別され、排除されながら、しかし力強く生きて行く人々の姿を描いている。  
様々な国境を越えてきた『赤鬼』を再び呼び起こし観客に改めて「他者」と 「境界線」の存在を気付かせたいと思っている。また『赤鬼』は、表現手法においても、現代人に求められる要素が多い。俳優の「身体」と、そこから発せられ る「言葉」のみでドラマを立ち上げる手法は観客のイマジネーションをどこまでも刺激する。現代社会の生活は、我々の想像力を狭く、乏しくなるように仕向けてくる。  
今一度、俳優たちの体から立ち上げるダイナミズムで演劇の可能性に挑戦し、現代の観客に豊かな想像力を取り戻してもらいたい。

関連リンク:TOKYO HEADLINE 「野田秀樹作『赤鬼』が中屋敷法仁の演出でこの2014年によみがえる」
http://www.tokyoheadline.com/vol618/interview.14712.php