大人計画「もうがまんできない」@下北沢本多劇場

本多劇場で見る宮藤官九郎作品。阿部サダヲ皆川猿時荒川良々、平山紙などの手練メンバーに加えて仲野太賀、永山絢斗漫才コンビの様子も面白く、役者さんたちの芝居は楽しく見ることができました。

だけど、たくさん笑ったその一方で、同時にここんとこうっすら宮藤官九郎作品に対して抱えてたモヤモヤもやはり感じてしまったので、一応覚書として言語化してメモしておきます。ややとりとめない文章ですが、ご興味ある方だけお付き合いいただければと。

(舞台が100%面白かった!笑った!という方はここでお引取りいただいたほうがいいかと思います)

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「もうがまんできない」で「うわっ」と思ったのは、なんらかの発達障害か知的障害のありそうな娘にデリヘルをさせてるのが父親であった、とわかるくだり。最悪だ。最悪の地獄なんだけど、それに対する批判や意図があってその状況を作ってるなら、そんな地獄を見ることにも意義があります。でもこの作品では「父親が娘に水商売させる状況の地獄絵図」を描くわけではなく「笑いや驚きを誘うためだけの道具」として使っていたのが、個人的には嫌な気持ちになりました。その父親と娘の陥ったやむにやまれぬ状況とか切実さとか、そういうのが伝わればまだ気持ちも違ったんでしょうけれど。

その娘を演じた中井千聖さん、演出家の求める芝居にはよくこたえていたとは思うのだけど、次々と体を張ったコスプレさせられる状況で(RRRとかウマとか)、女性にこういう「ヌードとは別の方向での恥ずかしい格好」をさせるあたりに、いたたまれなさというか、ちょっと共感性羞恥に似た気持ちを感じてしまったりもしました。

同じようなモヤモヤを宮藤さんの作品に抱いたことを思い出しました。それは、ねずみの三銃士の「獣道一直線」のとき。その時の感想にも書いたのだけど、  池谷のぶえさんを「中年のおばさん」の記号、山本美月さんを「若い美人」の記号として扱っていたときのひっかかる感じ、モヤモヤ感に似ています。なんというか女性に対してひとりの人間ではなく「おばさん」「若い美人」というただの記号でしかない扱いをしていて、それが笑いとして提供されている、という状況に対してのいたたまれなさ。

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宮藤さんの作品は全部ではないにせよたくさん見てきたし、最高に面白い大傑作と思うものもいくつかあれば、「ちょっとこれは私にはNotForMeだな」と思うものも少なくありませんでした。宮藤さんの脚本を別の人が演出する場合は比較的好きな内容である傾向が高く、宮藤さんの脚本をご本人が演出/監督する舞台や映画にはNotForMeが多いので、おそらく他のスタッフが関わることによってポリコレ的にアウトな部分やホモソーシャルな嫌な部分がマイルドになっていたんじゃないかな、となんとなく想像しています。(特にTBSドラマは女性プロデューサーの磯山晶さんがいたから面白く見られるものが多かったのではないかという推測)

別に宮藤さんや大人計画がやっていることが悪い方向に変わったのではなく、90年代から比べたらむしろマイルドになってすらいるようにも思えます。ただ、90年代と違って不快感を覚えてしまうのは、見ているこちらの意識が変わったんだろうなと思います。90年代は私も若かったし、子どももいなかったし、当時のサブカルチャーはきわどい描写や悪趣味な設定を笑いとして消費する空気もありました。だから私も過激なテーマや悪趣味な笑いをどこか「うわッ」と引く気持ちと同時に、小さな劇場でほんの数百人のお客さんと共犯めいた気持ちで笑うこともできました。ただ、もう今はサブカル的悪趣味を好んで笑うことは私はできなくなったんだろうと思います。

売れない若手漫才師の登場するエピソードということもあって「最近は笑いにもコンプラが厳しい」というような内容のセリフが出てきました(この文脈でコンプラのワードを使うのもなんかモヤモヤするにはするんですが。法令遵守じゃなくてポリコレのほうが意図に近いような)。たぶん大人計画や宮藤さんの作品もコンプラやポリコレで色々言われることが増えてるんだろうなとなんとなく想像はつきます。私は見てないけれど、平成中村座の新作で下ネタが批判されてれいるのもSNSでよく目にしました。ただこの「コンプラ」のワードをセリフに持ち出すことによって、「言われてるのは知ってるよ、でもやるんだよ」という主張に見えて、なおさら「うーん」とモヤモヤする気持ちが湧きました。「無自覚に無神経なことをネタにする」作家も嫌ですが、「いまこれが世間的にNGだって知ってる、でも俺はこれが面白いと思ってる」宣言されるのも、なんだかなー、と。

宮藤さんの作品は昔から「男子校演劇だな」と私は思っていて、ホモソーシャルの中でだけ盛り上がれる男子のための笑いなんだろうな、と。今回の作品も「娘に身体を売らせる父親」の存在が害悪ではなく、「父親に言われるがままに身体を売る娘、しかもおそらくなんらかの障害を抱えているがゆえにそれに逆らえない状況」が笑いの種にしかなっていなかったのを見て、「これを笑うのは嫌だなぁ」の気持ちになりました。

おそらく全人類にウケたい気持ちはなくて「わかるやつだけわかればいい」(ex.あまちゃん)の精神なんだろうと思います。そう、だからわざわざそれを見に行って文句を言うのも無粋だなぁという気持ちはあるし、嫌なら見なければいいのだ、と私も思っています。こんなのSNSでボヤいても、あの作品を楽しんだ人から見たら「フェミ乙」「フェミババァがなんか言ってら」で終わりなんだろうな、と。それでも、あの父親の存在と自閉症かなにか障害のありそうな娘への扱いを笑いのネタとして消費するのはなんか嫌なんですよね。ただの個人的なお気持ちで、だから誰に伝えるわけでもなく、寂れたブログに気持ちを綴っています。

本多劇場だから、下北だから、劇団公演だから、という点で、なんとなくそれでも笑って見ることはできましたが、これが渋谷でパルコ劇場とかコクーンとかの商業演劇だったら、もっと嫌な気持ちになっていただろうな、とも思います。なんか後から考えれば考えるほど「笑うには笑ったけど、なんか嫌だな」の気持ちが強くなってきたので久々に感想ちゃんと書きました。おしまい。